今日観た映画の感想

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ヨーロッパ映画の香り「六月の蛇」(2002)

ぷらすです。

今回ご紹介するのは2002年の塚本晋也監督作品、『六月の蛇』ですよー!
僕がこれまで観た塚本作品は「鉄男」「鉄男 THE BULLET MAN」「野火」くらいだったんですが(あと悪夢探偵も)、少しづつ過去作を観ていこうかなと思い、今回選んだのが本作です。

個人的に好きな作品だったんですが、いざ感想を書こうと思うと言いたいことを上手くまとまらなくてかなり難航しましたよw(書いてるとどんどん言いたいことが湧いてくる感じ)

なので、全然的外れな事を書いてるかもですが、ご容赦くださいねーw

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画像出典元URL:http://eiga.com

あらすじと概要

“都市と肉体”をテーマに作品を撮り続けてきた鬼才・塚本晋也監督が放つ、2002年ベネチア国際映画祭審査員特別大賞に輝いた愛とエロスの物語。見知らぬ男からの脅迫をきっかけに、秘めた欲望を露わにしていく人妻の姿を通し、生を実感できない現代人の孤独、心の渇きを描く。主演は『愛について、東京』の黒沢あすか潔癖症の夫役にコラムニストの神足裕司、ストーカー役を塚本監督自身が怪演。降りしきる雨や青みがかったモノクロ映像が鮮烈な印象を残す。

トーリー:梅雨の東京。潔癖性の夫と暮らす電話カウンセラー・りん子(黒沢あすか)のもとに、彼女の自慰行為の盗撮写真と携帯電話が届く。彼女の言葉で自殺を思いとどまった道郎(塚本晋也)からの脅迫だった。その日から、りん子の恥辱と恐怖に満ちた日々が始まる。(シネマトゥデイより引用)

 

感想

ヨーロッパの映画の香り

本作を観ながら、僕は「なんかヨーロッパ映画みたい」と思いましたねー。
恥ずかしながら黒沢あすかさん、神足裕司のことを知らなかった(神足さんは役者さんじゃないんですね)のも、邦画感を感じなかった理由の一つですが、青いフィルターをかけたモノクロのような美しい映像と、アブノーマルな性愛の形をソリッドな映像で描く塚本監督独特の乾いた“湿度”を感じさせない表現に、昔観たヨーロッパポルノ文学の映画化作品の香りを感じたのかもしれません。

主人公のりん子(黒沢あすか)は「心の健康センター」で電話相談を受けるカウンセラーで、潔癖症の夫 重彦(神足裕司)と二人暮らし。
セックスレスだけど、真面目で「優しい」夫とゆとりのある平穏な暮らしに表面上満足しているものの、心の奥底では夫に女として見られない不満や孤独を感じているわけです。
そこに、以前カウンセリングで自殺を思いとどまらせた末期ガンのカメラマン道郎(塚本晋也)が、盗撮した彼女の自慰写真を送りつけてきたことで、物語が動き出します。

前半は弱みを握られたりん子が、道郎の電話での指示に従ってミニスカートにノーパンで歩かされたり、大人のおもちゃを買わされたり、それを入れて街を歩かされたりというSM展開になっていくんですが、その行為がそれまで緩やかに鬱屈していた彼女の心を開放し、中盤からは立場が逆転していきます。
この二人は最後まで、電話でのやりとりとカメラのレンズを通しての「見る」「見られる」だけの関係で、直接的な接触はないんですが、カメラマンである道郎と、夫から見て(向き合って)貰えない事に孤独を感じるりん子にとって、この行為はセックスと同義なんですね。

一方の夫 重彦は、優しくて真面目で一見申し分ない夫に見えて、実は幼稚で神経質で弱い男だということが、次第に明らかになっていきます。
その弱さゆえ、りん子に発した“ある言葉”がその後に起こる取り返しのつかない事態を引き起こす引き金となってしまうんですね。

「性」と「死」を通して「生」を描く物語

アブノーマルでエロチックな描写が多い作品でもあるので、本作は一見「性」を描いた作品に思えるし、実際それも本作の一面ではあるんですが、本作が描いているテーマは大きく二つの軸があると思います。
「人は死を意識して初めて生を実感んできる」ってことが一つ、もう一つは「コミュニケーションについて」

カメラマンの道郎は、それまでブツ取り(静物)専門のカメラマンで他者とのコミュニケーションから逃げていた男です。
しかし、末期ガンであることが分かり、一度は捨て鉢になって自殺を考えるも「心の健康センター」で電話相談で「やりたいことをやれ」とりん子に励まされ(ガンのことをりん子は知らなかった)、りん子を盗撮。目前に迫る死を前にして、初めて生を実感するわけです。(相当ねじ曲がってますけどもw)

多分最初は、りん子(人間)を撮影したかっただけなのかもですが、そこでりん子の秘密を知った道郎は、(強制的に)りん子が心の奥に隠していた本当の欲求を開放します。

それは別にりん子が羞恥プレイに憧れてたとかではなく、「女として見られたい」、もっと言えば「自分を見て(認識して)欲しい」という欲求なんですね。

道郎は「死」に直面することで、りん子は「性」を開放される事で、初めて「生」を実感し、「生」とコミュニケーションは密接な関係があるというか。人は他者に認識されなければ「生」を実感することは出来ない的な?

中盤の山場での、道郎のカメラのシャッター音とフラッシュの中でのりん子の絶頂の叫びは多分、人として女として、互いに初めて認識しあった二人の「産声」なんだと思います。

そしてここでもう一人の登場人物である重彦ですが、彼は根本的には道郎と同種の人間で、「生」と向き合う事から逃げ続けてるんですね。
だから母親の最後にも立ち会わないし、ひとつ屋根の下で暮らすりん子とも向き合うことが出来ませんし、自分の暮らしから有機的な痕跡を異常なまでに排除しようとします。
そんな重彦に擬似的な「死」を体験させることで、道郎は(強制的に)重彦の目をりん子に向けさせようするんですね。

それは、道郎が恋した女の「本当の望み」を叶えてやったとも取れるし、自分と同種の人間、重彦というアバターを使って自分の「最後の望み」を叶えたとも取れるし、あるいは両方なのかもしれません。
また、最終的にこの三人の間にコミュニケーションが成立したのかどうかも人によって解釈が異なるところだと思います。

そこを明言せずに、りん子と重彦の絶頂の叫び(産声)でスパっと物語の幕を引く塚本監督の切れ味はさすがだなーと。

とはいえ、特に冒頭部分は人によって(特に女性にとって)は、不快に思うかもですし、ハッキリと結論が出ない物語が苦手という人にはあまりオススメ出来ない作品ではあります。

ただ、映像は綺麗だし時間も77分と短いので、観たことはないけど塚本作品が気になってる人の入口としては最適な一本なんじゃないかと思いますよー。

興味のある方は是非!!