ぷらすです。
今回ご紹介するのは、その、あまりにも奇抜なストーリーが話題を呼んだ『ブリグズビー・ベア』ですよー!
「スターウォーズ」でルーク・スカイウォーカーを演じたマーク・ハミルが出演しているというので、気になっていたんですがレンタルして観たら個人的にガツンとツボな作品で、最後は思わず泣いてしまいましたYO!
画像出典元URL:http://eiga.com
概要
アメリカのコメディー番組「Saturday Night Live」などで人気のコメディアン、カイル・ムーニーが脚本と主演を担当した個性派ヒューマンドラマ。25歳までシェルターで育った青年がいきなり外の世界に放り出され、思いもしなかった現実と向き合う姿を映し出す。『スター・ウォーズ』シリーズなどのマーク・ハミルが主人公の育ての親を好演している。共演は、グレッグ・キニア、マット・ウォルシュ、クレア・デインズら。(シネマトゥディより引用)
感想
この作品、例えば映画やアニメ、ドラマ、マンガ、小説、ゲームなど、いわゆる「フィクション」を子供の頃に観て育った人なら、思わずグッとくるんじゃないかと思います。
ストーリーをざっくり説明すると、25歳のジェームスは、赤ん坊の頃から外の世界を知らず、小さなシェルターで両親と一緒に生活しています。
どうやら、外の世界は空気汚染などでガスマスクなしでは出られない模様。
そんな彼が、楽しみにしているのが毎週ポストに届く子供向け教育番組“ブリグズビー・ベア”で、ジェームスは子供の頃からずっとブリグズビー・ベアを観て育ち、感想や研究をネットフォーラムで友人たち語り合っているんですね。
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少々退屈ではあるけど、何不自由ない生活。
そんな彼のシェルターに、ある日突然警察が踏み込んできて…!? という物語。
マーク・ハミルが誘拐犯!?
実はジェームスの両親は、彼が赤ん坊の時に誘拐して25年間の間シェルターに監禁していた誘拐犯だったんですね。
そして警察によって救出されたジェームスは、「外の世界」で本当の家族と暮らし始める事になるのです。
で、そんな誘拐犯でジェームスを25年間育てた偽物の父親を演じるのが、「スター・ウォーズ」でルーク・スカイウォーカーを演じたマーク・ハミル。
劇中、一見、人徳者で優しい父親といった感じの彼ですが、観客にはこのシェルターでの生活や、家族の会話や儀式、地上に作られたガラスドームから見える景色、そしてマーク・ハミル演じる偽の父親や、ジェーン・アダムス演じる偽の母親、そしてジェームスが毎週楽しみにしている「ブリグズビー・ベア」など、ジェームスを取り巻く全てが歪で違和感を感じる作りになっているんですよね。
そんなある日、ガラスドームの中で偽の父親テッドはジェームスに「人間は辛い現実の中にあっても、想像力で自由になれる。頭の中の自由だけは、何者にも侵されないんだ」と言います。
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実はこのセリフこそが本作を貫く根幹のテーマで、そのセリフを「スター・ウォーズ」のルーク・スカイウォーカー役のイメージを長年に渡って引きずってきた、マーク・ハミルが語るというのが、何とも絶妙だなーと思いましたねー。
また、テッドがジェームスの為だけに、長年作り続けてきた「ブリグズビー・ベア」も、(映像こそショボイものの)作りこまれた設定や世界観(の欠片)は「スター・ウォーズ」(どちらかといえばスター・トレック?)と重なるんじゃないかと思います。
つまり、この偽父のテッドにマーク・ハミルをキャスティングすることで、フィクションと現実、メタ構造も合わせて何重もの多層構造になっているのです。
そして冒頭から真実までが、僅か10分程度でサクっと分かる構成も見事だなーと思いました。
映画「ルーム」との相似と違い
ここまで読んでくれた人の中には、本作が2015年の映画「ルーム」に似ていると思った人もいるのではないでしょうか。
実は、この映画の基本的な構造は「ルーム」とほぼ一緒で、主人公が隔絶された小さなスペースから救い出され、初めて家族や「世界」と対峙し、受け入れるまでを描いた作品なんですね。
ただ、両作品を見ている人なら、この作品に“ぬるさ”を感じてしまうかもしれません。
「ルーム」では監禁中の地獄のような時間を描き、開放された後も親子は人々の悪意や無理解に苦しむことになります。
しかし本作では、いわゆる悪人はほとんど出てきません。
なにしろ偽両親のテッドやエイプリルすら、ジェームスを虐待したりはしないし、実の子のように可愛がっていますからね。
そういう意味で、この作品にリアリティーがない。ご都合主義と感じる人がいるのも仕方ないかなーと。
ただ、この作品の主題はソコではないんですよね。
新しい生活に馴染めないジェームスは、子供の頃から観ていたブリグズビー・ベアに固執し、パーティーで出会ったスペンサーや友人の協力を得ながら、自らの手でブリグズビー・ベアの最終回(劇場版)を制作するのです。
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しかし、ジェームスの本当の両親にしてみればブリグズビー・ベアはそれ自体が、25年間の間我が子を洗脳するために作られ続けた忌まわしい道具であり、ジェームスが夢中になるのは当然面白くないし、そんなものは早く忘れて前に進んで欲しいわけです。
けれど、ジェームスにとっては、両親もネット友達も(シェルターのパソコンはネットに繋がってなくて、テッドとエイプリルが友達を偽装してコメントを書いていた)、全てが嘘っぱちで、そんな彼の手の中にある唯一の「本物」がブリグズビー・ベアだったのに、それすら途中で取り上げられてしまったわけで。
だから、彼がブリグズビー・ベアを自らの手で終わらせる事は、「本物の世界」と対峙し受け入れるためには絶対に必要な通過儀礼。つまり形を変えた「父殺し」の儀式なんです。
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ジェームスにとってのブリグズビー・ベアは、僕らにとってのウルトラマンや仮面ライダーであり、ゴジラやガメラであり、ワンピースのルフィやDBの悟空なんですね。
彼らは子供にとってヒーローであると同時に、もっとも近しい友人、つまりイマジナリーフレンドであり、彼らとの別れを経験することで僕らは成長し大人になっていくわけです。ジェームスにとってはそれがブリグズビー・ベアで、だからブリグズビー・ベアの最終回はジェームスが前に進む(成長する)ためには絶対に必要なんですね。
作り手と作品は分けて考えるべき
また、本作が劇中で語っているもう一つの主張は、「作り手と作品(の評価)は分けて考えるべき」ということだと思います。
劇中、テディがジェームスのために制作した「ブリグズビー・ベア」は、友人スペンサーによってYouTubeにアップされるや、多くのファンを掴んでいきます。
これは近年、製作者やキャストの不祥事によって、人気映画の続編が立ち消えになったり、キャストが入れ替えになったり、遡って、彼らが手がけた過去作品の価値までが貶められるという事へのカウンターというか皮肉というか。
例え誰が作ったとしても、その作品が大好きで、作品に助けられたり人生が変わるほどの影響を受けた人はいるわけで、その気持ちを否定することは誰にも出来ないし、彼らにはその作品をなかった事になんか出来ない。
という事を、誘拐犯の作った偽番組の大ファンで自ら続きを作るジェームスというキャラクターを通して、監督のデイヴ・マッカリー、脚本のケヴィン・コステロ、主演・原案・脚本のカイル・ムーニーは言いたかったんじゃないかと思うし、僕もその主張には100%同意なんですよねー。
別に、不祥事を起こした製作者やキャストの罪がどうでもいい ということではなく、罪に対して罰は必要だが、それと彼らが残してきた作品や功績は分けて考えましょうっていうのは至極当前のことですから。
興味のある方は是非!!
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