ぷらすです。
こ今回ご紹介するのは、前回の高畑勲監督「かぐや姫の物語」に引き続き、宮崎駿監督の『風立ちぬ』ですよー!
この作品を最後に引退を決めて臨んだ宮崎さん渾身の本作は、堀越二郎を自身に、飛行機をアニメーションに重ね合わせて、アニメーションを作る事の葛藤や苦悩を赤裸々に描いた、まさに(当時の)宮崎駿監督の遺言といえる(ハズの)作品でしたねー!
画像出典元URL:http://eiga.com
概要
宮崎駿監督がゼロ戦の設計者・堀越二郎と作家の堀辰雄をモデルに、1930年代の日本で飛行機作りに情熱を傾けた青年の姿を描くアニメ。美しい飛行機を製作したいという夢を抱く青年が成し遂げたゼロ戦の誕生、そして青年と少女との出会いと別れをつづる。主人公の声には『エヴァンゲリオン』シリーズなどの庵野秀明監督を抜てき。ほかに、瀧本美織や西島秀俊、野村萬斎などが声優として参加する。希代の飛行機を作った青年の生きざまと共に、大正から昭和の社会の様子や日本の原風景にも注目。(シネマトゥディより引用)
感想
僕が本作を観るのは、今回が2回目になります。
宮崎さんの作品は個人的に「もののけ姫」あたりから、1回見ただけではピンと来なくて2回見てやっと物語が飲み込めるような作品ばかり(ポニョは除く)で、本作も公開時に劇場で観たとき、言わんとしている事は何となく分かるものの正直ピンとこなくて、今回改めて観て「こういう物語だったのか」と、やっと素直に飲み込めました。
アニメーター宮崎駿
それは多分、宮崎さんがストーリーテラーではなく、アニメーターであることが大きな要因になっていて、つまり物語を絵と動きで語るのが宮崎作品の大きな魅力なんですが、作品を重ねるごとにワンシーンに描かれる映像の情報量が増えていって、1度見ただけでは(少なくとも僕の)脳が宮崎さんの細かな映像演出を処理しきれなかったって事なんだと思います。
高畑さんはご自身が絵を描く人ではないストーリーテラーで、「物語を語るためにアニメーションを作るタイプ」の作家で、逆に宮崎さんは自身がアニメーターなので、「アニメーションを見せるために物語を作っていくタイプ」の作家なんですよね。
ただ、「もののけ姫」以降の宮崎作品では、宮崎さん自身の言いたいこと伝えたいことが前面に出てきていて、それをアニメーションで語ろうとするので情報量が増え、一度観ただけでは飲み込みづらくなってしまったのではないかと。
同時にそれは、アニメーション作家としての宮崎駿の苦悩や葛藤に直結していったのではないかと思ったりしました。
二人の宮崎駿
本作が、堀辰雄の小説『風立ちぬ』からの着想を得て、実在の人物でゼロ戦の設計者堀越二郎の半生を“完全なフィクション”として描いた作品なのは、今更説明するまでもないことですが、前述したようにこの作品を通して宮崎さんは自身を赤裸々なまでにさらけ出しています。
堀越二郎と飛行機の関係にはアニメーションとアニメ作家としての宮崎さんが、「風立ちぬ」の主人公「私」にはロマンチストの宮崎さんを。
宮崎駿という人間を構成する二つの大きな要素をそれぞれの物語の主人公に乗せて、本作の主人公 堀越二郎を作り上げていったのです。
祝福と呪い
劇中、次郎が尊敬するイタリアの飛行機設計士カプローニは、夢の中で繰り返し飛行機を作る事の祝福と呪いについて語ります。
それに対し次郎は「美しい飛行機が作りたい」と返しますよね。
それはそのまま、宮崎さんとアニメーションの関係を表していて、アニメーションやスタジオジブリは、アニメ作家宮崎駿にとって大きな祝福であると同時に、苦しめ続ける呪いでもあるのです。
転じて、宮崎さんが抱えるアニメーションへのそれは、(恐らく)ジャンルを問わず全てのクリエイターにとって同じ、普遍的な苦悩であり葛藤でもあるのではないかと僕は想像するんですよね。(クリエイターではないので想像する事しか出来ませんが)
またカプローニは次郎に「創造的な人生の持ち時間は10年だ」と言います。
それは、宮崎さんが作家として(実感を伴う)「老い」について語っているわけで、カプローニもまた宮崎さん自身なんですね。
公開時、本作がクリエイターの人たちに熱く支持されたのは、この作品が作家宮崎駿の自伝であり、クリエイト論だからなんだと思いました。
そんな自分語りのキャラクターに堀越二郎をあてたのは多分、宮崎さんが数千人の従業員を擁した一族が経営する「宮崎航空興学」の役員を務める一家に生まれたという事が深く関係してるように思うんですよね。
菜穂子との純愛
本作は、宮崎さんが初めて男女の純愛を真正面から描いたことでも話題になりました。
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美しく活発な菜穂子でしたが、(当時は)不治の病である結核を患ってサナトリウムに入院。しかし、自らの死期を悟った彼女はサナトリウムを抜け出して、次郎の上司黒田の離れで短い結婚生活を送り、次郎に黙ってサナトリウムに戻っていきます。
現代の価値観で見れば、彼女は次郎にとって都合のいい女性に見えなくもないですが、美しい自分だけを次郎の記憶に残したいと願い、自ら身を引く彼女の矜持は「カリオストロの城」のクラリス以降、宮崎さんが描き続けてきた(芯の)強いヒロインの集大成と言えるでしょう。
あと、次郎が夢の中で菜穂子に「生きて」と言われるラスト。
あのセリフを巡って何か色々な都市伝説があるようですが、僕はあの菜穂子のセリフは、アニメーションの現場で長年共に戦い、亡くなっていった戦友の人たちを思いながら、宮崎さんが書いたセリフなのではないかと思いました。
同時に現代を戦う後輩たちへの、宮崎さんからの手向けの言葉でもあるのではないかと、そんな風に思ったんですよね。
宮崎駿と高畑勲
前回の「かぐや姫の物語」でも書きましたが、宮崎さんと高畑さんは作品に対する姿勢もアプローチも真逆です。
高畑さんは主人公の向こうにある「世界」を描き、宮崎さんは「世界」の中の主人公を描くというか。
それって、小津安二郎と黒澤明の作品に対するアプローチの違いにどこか似ていると思うんですよね。
まぁ、超面倒くさい人って意味では、高畑さんも宮崎さんも同類なんだろうと思いますけどもw
ともあれ、こうして高畑さんの「かぐや姫」宮崎さんの「風立ちぬ」を並べて観てみると、タイプは違えど二人が天才作家なのは間違いなく、そんな二人がスタジオジブリという場所で互いの作品を意識し合い影響を受けながら、こんなにスゴイ作品を作ったこと、それと同じ時代を生き、両者の作品をこうして観ることが出来るのは本当に幸せなことなんだって思いましたねー。
興味のある方は是非!!!
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