ぷらすです。
今回ご紹介するのは、ディズニー映画『ミラベルと魔法だらけの家』ですよー!
「モアナと伝説の海」のスタッフが贈る完全オリジナルのミュージカル映画です。
画像出展元URL:http://eiga.com
概要
南米コロンビアの奥地を舞台に、魔法の力が備わる家に暮らすヒロインの活躍を描いたディズニー・アニメーション・スタジオによるミュージカルアニメ。一人だけ“魔法のギフト”をもらえなかった少女が、魔法の力を持つ家の危機を知って立ち上がる。監督を務めるのは『ズートピア』で監督と共同監督として組んだバイロン・ハワードとジャレド・ブッシュ。映画化もされたブロードウェイミュージカル「イン・ザ・ハイツ」などのリン=マヌエル・ミランダが音楽を担当する。(シネマトゥディより引用)
感想
ポリコレとかアレコレとか
ウォルト・ディズニー・アニメーション・スタジオと言えば、(グループにピクサースタジオを抱えている事もあり)事実上世界一のアニメーション製作スタジオと言って間違いないでしょう。
しかし、その歴史は決して平坦ではありません。
白雪姫から始まる「ディズニープリンセス」路線で一時は栄華を極めたディズニーですが、時代が進むといつしか「白馬の王子さまが迎えに来て幸せに暮らす」という恋愛のテンプレは時代遅れとなり。
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また、2017年にアメリカで始まり、世界中に広がった「#MeToo」運動は、女性が受けてきた性的搾取やハラスメントをSNSなどを使って告発するという運動ですが、有名ハリウッド女優らの映画プロデューサーや監督らからのハラスメントを受けたという告発から、映画プロデューサー、ハーヴェイ・ワインスタインの逮捕に繋がるなど、世界の大きなうねりは、ディズニープリンセスもののテンプレをも否定する流れに。
そうした流れの中、ディズニープリンセスものの転換期となった作品が2010年の「塔の上のラプンツェル」ではないかと個人的には思っていて、そこから時代の波に乗る形で、2013年「アナと雪の女王」、2018年「シュガー・ラッシュ:オンライン」と2019年「アナと雪の女王2」で、ディズニープリンセス路線は完全に方向転換を図っていったわけです。
また、「#MeToo」運動と前後するように、人種・宗教・性別などの違いによる偏見・差別を含まない中立的な表現や用語を用いることを指すポリティカル・コレクトネスや、2012年、黒人少年が白人警官に射殺された事件に端を発するブラック・ライブズ・マター。映画業界でも、白人以外の役柄に白人俳優が配役されるホワイトウォッシングへの反発。
また「アナと雪の女王」でも北欧の先住民族「サーミ」の音楽を思わせる歌の使用やサーミのトナカイ飼いに似た衣装を着ているにも関わらず、クリストフがサーミ民族に見えない事から「文化の盗用」という批判を受けたディズニーは、2016年「ズートピア」で人種差別を描き、2016年公開の「モアナと伝説の海」ではポリネシア文化を徹底的に調査、ドウェイン・ジョンソンなど、ポリネシアン系の俳優を多数起用し、2017年公開のピクサー映画「リメンバー・ミー」でも同様に敬意を持ってメキシコ文化を描きました。
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そして2019年公開の「アナと雪の女王2」ではサーミを連想させるノーサルドラの民とアレンデール王国の関係を描き、エルサとアナがアレンデール王国の父とノーサルドラの母の間に生まれたハーフであるという設定に。専門家の助言を受けながら、文化や音楽にも敬意をもってサーミを表現したのです。
ディズニーのこういった姿勢は、多くの人々に評価される一方で、作品内に常に社会問題を(メタファー的に)入れ込むことで、作品によっては説教臭く感じたり、居心地の悪さを感じたりする人も(僕を含め)少なからず増えたような気がします。
昨年末に評した「ラーヤと龍の王国」で僕は、ストーリーよりも語られるテーマの方がデカくて、まるでディズニーの演説を聞かされている気分。みたいな事を書いたと思います。
では本作「ミラベルと魔法だらけの家」はどうだったのかというと……。
ざっくりストーリー紹介
本作の舞台は南米コロンビアの奥地にある架空の町「エンカント」と、魔法の力を持つ家「カシータ」
そこに住むマドリガル家の子どもたちは、1人1人に異なる「魔法の才能(ギフト)」をカシータからプレゼントされるのだけれど、主人公のミラベル(ステファニー・ベアトリス)だけはギフトを貰うことが出来なかったんですね。
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それでも明るく振舞う彼女ですが、その実、自分だけが魔法を使えない事に劣等感を感じていて、それでも何とか家族の役に立ちたいと奮闘するも、何かと空回りしがちな日々。
そんなある日、5歳の従兄弟アントニオ(ラヴィ・キャボット=コニャーズ)がギフトを贈られるめでたい日に、家族やカシータの魔法の力が弱まっていることを知った彼女は――というストーリー。
このあらすじからも分かるように、本作のテーマはギフト=才能&家族です。
つまり才能を持つ者、持たざる者、才能(ギフト)を受ける祝福と呪い、同様に家族もまたギフトと捉え、その祝福と呪いについてを、割とどストレートに描いているんですね。
ノイズ
では、このマドリガル家がどういう経緯で魔法の能力(ギフト)を得たのかと言うと、ミラベルの祖母アルマ(マリア・セシリア・ボテロ)は夫ペドロとの間に3つ子をもうけ幸せに暮らしていたが、迫害を受け家を放棄して家族と共に逃亡。
その途中、アルマや子供たち、一緒に逃げた人々を守るため、自ら追手によって命を奪われるんですが、それと引き換えに魔法の力を得たアルマが、追手を追い返し、丘を高山に隆起させて世界を閉じ、そこにペドロの分身とも言うべきカシータを作ったのです。
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以来、マドリガル家に生まれた家族は、カシータから魔法の力(ギフト)を授かり、家族や共に逃げた町の人々のために使うわけですね。
この冒頭シーンは凡そ50年前らしいので、年代的に、ペドロやアルマたちは、1978年に就任した自由党のフリオ・セサル・トゥルバイ・アヤラ大統領政権下で行われた弾圧から逃げてきたという設定のかな?
もちろん子供向けのアニメだし、物語的にもそこはさほど重要じゃないということなんでしょうが、何の事情も分からないままアルマたちが追われ、祖父ペドロの死から始まるという始まりなのに、モデルになったであろう元の事件?がハッキリ分からない事が、個人的にはこの物語を観るうえでノイズになっちゃうんですよね。
もしかしたら僕が無学なだけで、例えばコロンビアやアメリカの人が本作を観れば、一発で「あー、あの事件が元ネタなのね」って分かるのかもですが。
「アナ雪」のカウンター?
本作に登場する花の魔法を使う完璧美女な長女イサベラ(ダイアン・ゲレロ)や、怪力の魔法でどんな重い物も持ち上げる二女ルイーサ(ジェシカ・ダロウ)は、家族や町人の期待に応えながらも、その事をプレッシャーに感じている=ギフトの呪いを受けているという点で、「アナ雪」のエルサにかなり近い物を感じるし、たった一人ギフトを貰えなかった事にコンプレックスを持っているミラベルは、妹のアナに近いキャラクターと言えるかもしれません。
ただ、同じくギフト=才能=個性を扱った両作ですが、その捉え方や描き方は近いようで正反対でもあるので、本作と「アナ雪」は同じテーマを扱いながらも鏡合わせ的というか、むしろ本作は「アナ雪」のカウンター的作品と言えるかもしれません。
同時に“家族”の祝福と呪いを描くという点は、ピクサーの「リメンバー・ミー」と同じなんですが、両作の捉え方や描き方も似てるようでアプローチが違うし、「リメンバー~」では描かれなかった「才能」と「家族」を両輪として描いたことで、物語がブレて上手くかみ合っていない印象を僕は受けたんですよね。
もっと家族か才能のどちらかにテーマを振り切った方が収まりが良かったというか。
また、劇中、魔法の力が消えて「セカイが終わる」みたいなセリフがあったと思うんですが、ここで言う”セカイ”とは、マドリガル家の家族が暮らす家(カシータ)の事で、外の世界とは一切コネクトしていないのです。
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そういう意味で本作はこじんまりと作られた箱庭の中の小さな物語という印象を受けたし、最後まで外の世界とコネクトしないなら、別にコロンビアが舞台である必然性は殆ど感じられないって思いましたねー。
別に舞台が他の国でも全然成立する――みたいな。
まぁそれでも大上段に振りかぶって社会問題を切る。みたいな大仰さはなく、今回は極めて個人的な内面の問題を描いているので、近年のディズニー作品としては観やすさはあるんですけど、だからと言って名作とはとまでは言えない、正直に言えば及第点くらいの感じだったんじゃないでしょうか。
それでも、僕は本作の音楽や歌は大好きだし、カラフルな色使いも美しかった。
それにやっぱディズニーですからね。
これだけ文句言ってたって一定以上のクオリティーは担保されてるし、ちゃんと最後まで楽しく観ることができましたよ。
興味のある方は是非!
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